RUN NEET RUN

元ニートだから突破できる常識の壁

先日、このブログを読んでくれた友人から紹介してもらった記事で興味深い内容がたくさんあった。その中で一番興味深かったのは「ライトなファン層をコアなファン層にするためにはどうしたら良いか?」という話題である。

この、「ライトからコアなファン層になる」ために必要な要素を、元ニートとして社会に出てきている人間は持ち合わせているのでは無いかと思うのだ。
そして、その要因はやはりニートという経験が重要な役割を持っているのだと思ったので、今日はその話をしてみたいと思う。

今回参考にさせてもらった記事はこちらのリンクからぜひ読んでみて欲しい。
『【Asobica今田×鹿島アントラーズ・メルカリ小泉対談】AI革命の先にある、人類の“余暇”が増えた世界。「心の豊かさ」を再定義し、事業のヒントに昇華する思考法』

無難な行動を生み出す「常識」

まず、「ライトからコアなファン層になるために必要な要素」とはなんだろうか?
これは先日king gnuのドームツアーFinalを観に行った際に、この肌で感じることができた。

僕は元々king gnuは知っていたし好きな曲もたくさんあるが、ファンクラブに入っているわけでも無いし、ライブも今回知人に誘われて初めて行くことになった。つまり、典型的な「ライト層」のファンである。
僕と知人の席は札幌ドームのスタンド席の上の方。ステージはバッチリ見えるがアリーナ席の盛り上がりと比べるとやはり見劣りする席であった。
ライブ自体は素晴らしく、僕も人生で2度目程度のライブ体験だったので、非常に楽しむことができた。

しかし、やはり僕はライブを経ても「コアなファン層」に移行することはなかった。周りには、例え後ろの方の席でも熱狂的に盛り上がっているコアなファン層の方もたくさんいたが、その方々と僕は楽しみ方や楽しみ度合いは全然違うものだった。
ライブの後半では、スクリーンに会場のお客さんが映し出される場面もあったが、皆熱狂の中飛び跳ね、大声で一緒に歌う方ばかりであった。
僕はといえば、少し恥ずかしさを感じながらも手拍子をしたり、体を少し揺らしてリズムに乗ってみたり、その程度の楽しみ方で終始していた。

この僕を代表する「ライトな層」と、他の熱狂的な「コアな層」にある違いとは何か?
それはまさに今使った言葉「熱狂」しているかどうか、である。

その「熱狂」度合いは分かりやすく行動に表れている。
会場のスクリーンに映ったお客さんも、普段の生活の中で大きな歓声を上げて飛び跳ねて激しくリズムに乗るような行動はおおよそしないだろう。職場や電車の中でそんな行動しようものなら「非常識」な人間だと思われる。だけど、ライブという環境においてはそんな非常識な行動もむしろ当たり前なくらいに正当な行動になる。その時だけは「非常識」なことができてしまうのだ。

それに対して僕はといえば、おとなしく手拍子したり体を少し揺らす程度で、日常の中で仮にこの行動をしたとしても、それほど非常識な行動にはならない。あくまでも普段の「常識」の範囲で楽しんだのである。

ここに、「ライトな層とコアな層」の大きな違いがあるのだと思う。
つまり、コアなファン層というのは特定の条件において「非常識になることができる」のである。非常識になることができるファンが増えれば増えるほど、そのサービスは熱狂的でコアなファンが増えることになり、サービスとしての盛り上がりを見せるのである。

「ファン」というものにとってある意味「常識」というのは邪魔なものなのである。

常識の正体

ここで一つ、「常識」という言葉の誤解を解いておきたい。
前項を読んで、「熱狂的なファンは非常識である」という部分だけを抜き取られてしまうと非常に困る。これだとまるで、熱狂的なファンは常識がなく他人に迷惑をかけることも厭わないというところまで飛躍して受け取られても仕方がない。確かに、熱狂するあまりそういった行動をとる人や場合があることもあるだろうが、ここでいう「常識」というのはそういったマナーに関することを言っているのでは無い。

かの有名なアルベルト・アインシュタインの言葉に、以下のようなものがある。

常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである

人は生きていく中で、社会に溶け込み、周りの人と円滑にコミュニケーションを図るために、「こうすべきだ」という処世術をたくさん覚えていく。
皆無意識のうちに「〜しなきゃ」とか「〜するべきだ」という言葉を使っていることだろう。

しかし、今一度立ち止まってじっくりと考えてみて欲しい。
「〜しなきゃ」と自分が思っていることは、本当にしなければならないことなのだろうか?
「〜するべきだ」と自分が思っていることは、本当にするべきことなのだろうか?

「会社に行かなければならない」

本当?

「生活のためにお金が必要だから」

じゃあ、お金があれば仕事はしなくてもいいんじゃない?

「仕事しないでお金は稼げない」

仕事しないでもお金がある人はたくさんいるよ?

「それは、その人が特別で、自分とは違う」

じゃあ自分がその人のように特別になる方法はないの?

・・・

と、問答を続けていけば、いずれ全ての「常識」は「そうしなきゃいけないこと」でも「そうするべきでもない」ということがわかるはずだ。
人を殺すことですら、罰せられない時代がたくさんあった世界である。今自分たちがこうしてはいけないと思っていることも、100年後にはみんながやっていることかもしれない。

常識というのは、それくらい儚く刹那的なもので、絶対的なものではないのである。

そういった、この時代に生まれて生きる僕たちの「偏見のコレクション」とは違った判断基準で行動選択することを僕は「非常識」と読んでいるのである。

ニートが手にいれる「非常識」

さて、ようやく本題である。
「ライトからコアなファン層になる」ために必要な要素を、元ニートとして社会に出てきている人間は持ち合わせているのでは無いかと思う理由について。
それは「ニートが手にいれる非常識」に関わってくる。

ニートというのは「常識」で考えるとどういう存在だろうか?

「常識」では、
「仕事はするべきこと」だし、
「親のすねをかじって生きることは恥ずかしいこと」だと思われているだろう。

これはニートとして生きていれば当然自覚があるし、僕はニートである自分を何の役にも立たないゴミみたいなものだと思っていた。何ならゴミの方が燃やして電気になったりする分よほど社会の役に立っているとも思っていた。

そんな風に日々考えていたら、僕らニートは「常識」的な感覚で過ごしてしまうと、自分という存在をどうやっても肯定することができない。「常識」で生きられないことが辛いし、毎日のように死にたくなる。
だから僕たちニートはとある能力が発達していく。

それが「現実逃避能力」である。
僕らニートは、自分が社会において存在する価値がないという「常識」的な現実から逃げる。考えないようにする。関係ないことをたくさん考える。
つまり、「非常識」であることを当たり前にして、それがなんら問題ないことにして生きてしまうのだ。

ニートという「非常識」な日常を当たり前に過ごす。
これがニートという存在の日常である。

なぜニートなんで状態で長くいられるのか、不思議に思う人も多いと思うが、これがニートの真実だ。ニートは「常識」を認識しないことによって現実逃避してその状況を切り抜ける。「非常識」を自分のデフォルトにしてしまうのだ。

これで、「ライトからコアなファン層になるために必要な要素」と「ニート」がつながるわけである。
ライトからコアなファン層になるためには「常識」を捨て「非常識」になる必要があり、ニートはその「非常識」を持った存在である。

これが、この二つがつながる理由である。

「人生に熱狂」できる

さて、じゃあニートが「ライトからコアなファン層になるために必要な要素」を持っているとどうなるのか?というのが、この話題の最後のキーワードである。

結論から言えば、「非常識」を獲得したニートは「人生に熱狂」できるのだ。

例えば、メジャーリーガーの大谷翔平選手が夢を叶えてメジャーリーグで二刀流で活躍する姿をみて、皆さんはどう思うか?
彼の人生は、野球を楽しむためだけに特化し、そのために人生の全ての時間を費やして打ち込んでいる。それも、ただ時間をたくさん使うというレベルでは当然なく、ありとあらゆる試行錯誤をし続けて、自分の目指すものに近づくために常に最も効果的な選択肢を選び続けるように考え、行動しているだろう。
そんな姿は、我々一般人からすれば「狂っている」と言ってもいいほどに常軌を逸しているように見えるのではないか。尊敬はすれど「自分にはできない」と心の奥で思っている人が大半ではないだろうか。
大谷翔平選手は、自分の人生に「熱狂している」からこそ、ある種「非常識」に自分を行動させることができるのだ。

僕は「非常識」を獲得したニートには、大谷選手と同じような「人生に熱狂」できるポテンシャルがあると思っている。
僕たちニートは、その有り余る時間をいかにして「楽しむか」という一点において、熱狂しているのである。

例えば、一日中wikipediaを見るだけの日が、ニートには当たり前にある。
普通の人であれば、そんな一日を過ごした日には「あぁなんて無駄な一日を過ごしたんだ」と後悔するだろうが、ニートはそんなこと日常茶飯事なので、いちいち落ち込むことなんてせず、ひたすらにその時間を楽しんだことにするのだ。
そうすると、その時間に触れた情報は確かに脳みそにインプットされ、他のアウトプットに生かされる時が来るかもしれない。
大谷選手のように何か一点に絞った熱狂ではないから、その成果が現れるかどうかはこの先の人生次第だが、「〜したい!」とか「〜しよう!」と自ら進んで楽しんだ時間を過ごしたならば、その時間は必ず大きな価値あるものにできると思う。

「非常識」を獲得し「人生に熱狂」できるようになったニートたちが、この社会で大きなエネルギー源になることを僕は信じている。

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